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岩崎城は日進市の戦国時代の様子を今に伝える貴重な城址。中世城郭の特徴である土塁や空堀をよく残していることに加え、本丸跡には6世紀の古墳の遺構も残しています。
さらに、羽柴秀吉と徳川家康の直接対決として知られる「小牧・長久手の戦い」では、その勝敗を左右する戦略地点としての役割を果たすなど、岩崎城は日進市にとって大切な歴史的遺産となっています。
一般的な近世城郭を参考に建てられた展望塔岩崎城。4階の展望室からは日進市内と長久手・瀬戸方面、名古屋が一望できる。
岩崎城は日進市岩崎町にある平山城。築城された年代ははっきりしていませんが、16世紀初頭頃に尾張国の東端、国境付近を守る織田信秀(信長の父)の支城であったと考えられています。当時、岩崎の地は尾張、三河間を往来する街道の要衝地であり、周囲を見渡せる場所にあるため、尾張の織田家にとっても、三河の松平家にとっても重要な場所でした。その後城主は松平清康に変わりましたが、清康が「守山崩れ」によって亡くなったことで岩崎城は空き城に。その後、文明年間からこの地方の土豪であった丹羽氏清が岩崎城に移り住み、以後、丹羽氏4代の居城となります。
当時の様子がうかがえる空堀あと。櫓台から遊歩道が続いており、一部の空掘の中を散歩することができる。
岩崎城を一躍有名にしたのは、天正12 年(1584)に始まった小牧・長久手の戦い。この戦いで、4代目城主であった丹羽氏次は徳川家康・織田信雄の連合軍に従い小牧に出陣、城は弟の氏重が守りました。そこへ家康の本拠地・三河を急襲すべく岡崎に向かった池田恒興の軍勢が、三河国の入口に建つ岩崎城を攻撃。大激戦の末、およそ300人の城兵全員が討ち死にしました。
しかし、この戦いのおかげで恒興隊を足止めすることができ、窮地を救われた家康は、長久手の戦いに勝つことができました。家康から功績を認められた氏次はその後も家康のもとで活躍し、三河国伊保(現在の豊田市)で一万石の大名に。これ以降、城は廃城となってしまいます。
昭和60 年(1985)に行われた岩崎城発掘調査によると、築城当時は単郭の城でしたが、小牧・長久手の戦いの直前に大規模な土木工事を行い、城域を大きく拡げたことがわかりました。丘の頂上に櫓台のある本丸、その北に二の丸、西に西曲輪、 東に東曲輪が配置され、それぞれの曲輪の間に空堀が設けられるという城郭に変化したのです。また、この発掘により、土塁の下から古墳も発見され、出土品である須恵器の特徴などから6世紀前葉に造られたと考えられています。
岩崎城が廃城となってのち400 年以上も荒地となっていましたが、城跡が竹やぶなどの雑林に覆われていたことから、遺構を比較的よい状態で保つ結果となりました。しかし、時代の移り変わりとともにそのままの状態で残すことが難しくなりました。昭和59 年(1984)4 月9 日、落城の日に慰霊大祭が地元住民によって営まれ、これを機に古城跡を城址公園として整備し、保存することに。そして昭和62 年(1987) には地元住民の寄付により展望塔岩崎城が完成。以来、郷土を愛する地元住民のシンボルとして、市民に親しまれています。
岩崎城址公園入口
岩崎城址公園内には岩崎城歴史記念館も併設されており、岩崎城にまつわる歴史はもちろん、日進市の歴史・文化についても展示・解説しています。視覚・聴覚を使う分かりやすい展示方法をとっており、学芸員に説明を聞くこともできます。興味がある方は受付に声をかけてください。
学芸員の方に説明を聞く見学者(岩崎城歴史記念館)